長田地域の地場産業『ケムカルシューズ産業』を中心とした職住一体の町、外国籍住民が混在し、お好み焼き店、喫茶店などの多さや、焼肉店、韓国料理店など飲食店がたくさんあり、戦後の下町を風する趣のある地域であった。
夏は盆踊りなど、子供の遊ぶ声があちこちに聞こえ、狭い道路を軒すれすれにバスが走り、風情豊かな、地域住民のコミュニティーが自然にとれていた地域であった。
(写真提供:神戸長田コンベンション協議会)

地震規模は、マグニチュード7.2、震度7を記録し、震源深さ14kmという直下型地震であった。
全半壊・焼失家屋は約25万棟。
うち
新長田駅北地区(鷹取エリアを除く)は、建物の全半壊・全焼率8%。6400人の方が亡くなられた。
震災直後の体験、救助活動
長女と次女が寝ていた隣の部屋の天井は崩れ落ち、2人とも完全に埋まってしまった。
2人とも意識はあり、長女のみ息ができないと助けを呼んでいた。
身動きが取れた私と三女は無我夢中で助けを呼びに入り口を探した。
とりあえず三女を表に出し、駆けつけてきてくれたご近所の方々とともに長女の救出を始めた。
長女はぐったりしていたものの、すぐに意識を取り戻し無事であった。
続けて次女、妻と救出し家族全員ひとまず崩れた家の外へと出ることができた。
家も工場も一瞬のうちになくしたが、家族の無事が何よりもうれしく本当によかったと思った。
また、
地震発生からわずかな時間で家族全員無事救出できたのは、ご近所の方々の暖かい協力があったからだと思う。
震災後の生存者の救出は、地域住民の協力によるものが9割以上とのデーターもあります。
マンションの管理から
■地震発生直後
地震発生直後のマンションでは何が起こったのか解らない方もかなりおられ、パニックの中マンションの管理人(以下S氏)を中心に有志約20人の方が、避難誘導に当たった。すべての住民が避難できたかどうか、また家具の下敷きで動けない人がいないかどうか、特にお年寄りのお宅や、鍵の掛かっているお宅で返事の無い場合は、何回も扉を叩いたり、叫んだりして確認した。
■その後
3日後には、住民の8割が戻ってきておられた。そのうち、このマンションは傾いているなどの風評が入居者の間で広がったが、入居者の集会を行い、当面守っていただけなければならないことをお願いした。4月に「災害復旧委員会」を発足させ、災害復旧計画を進めた。
医療の現場から
■地震発生直後
被災から5日目にクリニックまで着くと、建物の外壁には大きな亀裂が走り、器量用具も散乱していた。数日かかって職員と片付け、出勤していることを貼紙した。
施術所は倒れ、無人の状態でよかったと安心した。ガレージ倉庫が無事であったので、医療器具・医療品を移動。蓮池小学校の先生から要請があり、息子・研修生とともに応急処置を行った。
■その後
来院される方も増えたが、ライフラインが寸断され治療が限られ、薬の在庫が切れ、補給が大変だったが、薬局さんに奔走努力していただいて、診療を行うことが出来た。患者さんの傾向は、直後は暖を取れないため呼吸器の病気が多く、その後食事が弁当の形になったころから胃腸の訴えが多くなった。それからしばらく後からは、ストレスによる不眠、血圧の上昇の訴えが多かった。
無料治療を行っていることを知らせるため、看板を張り出し、道行く人の治療を行った。無料診療は違反だと云う人もいたが、法律違反なら甘んじて受けようと考えていた。
■学んだこと
倒壊した家屋からの脱出のための注意事項
@寝室には倒れるもの、落下するものは置かない。
A懐中電灯、厚い靴下かスリッパ、携帯ラジオ、手袋等は枕元の柱にかけておく。
B脱出口が見つからないときは、屋根を破って脱出する。
Cどこでガスが洩れているかわからないのでマッチ、ライターは絶対に使用してはならない。
Dカーラジオを聞く。
E脱出できたらまず近所の人の救助にあたることを忘れてはいけない。

消火活動の現場から
■地震発生直後
いまだかつて想像もできない数々の現場に直面、足が前に出なくなるまで活動し続けた。市内で59箇所で炎上火災が発生、道路は倒壊家屋で塞がれ通行できない箇所が多数続出、消火活動も消火栓が使えない状態で防水水槽に頼ったが数は少ない。渇水期であるため六甲山から流れ出る川の水量も少ない。住民による初期消火は期待できない状況で被害は拡大していく。
■その後
5ヵ月後に街づくり協議会を立ち上げ住民の中から役員を選出、規約をつくり、会合を重ね街の将来をみんなで考えた。役員会を開き住民総会で説明し、神戸市に次々と要望書を提出してきた。
■学んだこと
思い知ったのは、行政だけに「公共の全てをまかせてはいけない」ということと、市民一人ひとりの自覚と責任能力を高めていかなければならないということ。最終的に目指すのは市民が主体の社会である。次の段階に向けた住民側の動きを引き続き支えていくという姿勢が行政には欠かせない。
教育の現場から
■地震発生直後
学校施設開放担当者が校門を開け、避難者を誘導、職員により体育館を開放。引き続き校舎を開放していった。その後、地域の人の協力により炊き出しを行い、救助・児童の情報収集・尋ね人の対応に明け暮れた。
当日の夜のニュースで園周辺の火災を知り、もう駄目だろうと覚悟したが、翌日向かうと何事も無かったかの如く建っていた。各室内は足の踏み場も無いくらい散乱していた。福祉事務所に報告傍今後の打ち合わせに行くが、担当者もどうしてよいか分からないとの事なので、独自で動かして動かせてもらうことにした。
■その後
炊き出し・救助・児童の情報収集・尋ね人の対応を引き続き行う。また、臨時電話の設置、仮説トイレの設置、ボランティアの受け入れ、避難者のリスト作り等も行う。同時に児童の登校に備え施設設備の点検、登校の連絡、学校再開する。
連絡がつく職員や近所の方の応援により、園の片づけを行い、園児の消息を調べに回った。震災発生6日後より園再開、市民トイレの張り紙をする。園は、園児以外の子供にも開放し、昼食・おやつも出した。新聞、テレビで園が再開したことを知った方々や、コープから救援物資、子供服が届く。
鉄道現場から
■地震発生直後
発生翌日の18日には明石駅以西で運転を再開したものの、以東は駅舎・ホームの損壊、土留擁壁の倒壊、レールの破断・曲損、架線や信号設備の損壊等により随所で寸断され、復旧までに約5ヶ月間を要した。とりわけ坂宿駅、山陽須磨駅、山陽塩屋駅付近の状況は、悲惨であった。
■その後
地上線の復旧に代え、完成目前であった地価線を普及する方法を採用した。建設省と運輸省(現・国土交通省)による検査を受けた後、まず坂宿駅・東須磨駅間で下り線を使用した単線運転を、次いで西代駅・東須磨駅間で複線運転をそれぞれ開始した。
避難生活

すべてのライフラインが止まり、非常事態になった時に人間本来の思いやりのある優しい姿を垣間見たような気がしました。
避難所では、暖かいご飯が出た時のどよめき、電気がついた時には拍手が起こり、トイレの水運びなどみんなで助け合う心。
外では信号が止まり、おびただしい交通渋滞の中、交差点では譲り合い、横断歩道に人がいればすぐ止まり、半日以上単車にキーをつけたままでも、盗難に合うこともなく過ごした日々を思い出します。
ライフラインが一瞬にしてとまり、何もかも失ってしまった中、水・食料など、地域での助け合いが一番の励みになりました。